副職を終えて辿る帰路はすっかりと夜に浸ってしまっていたものの、等間隔で浮かぶ街頭のお陰で苦心することもなく夜の中をは歩き進む。元より夜更けに出歩くことには慣れていたものの、街頭がなければ道を間違えそうになってしまうことばかりはどうしようもないのだ。明かりの傍でぼんやりと浮かぶ軒並みを視界へ入れながら、市内一のボロアパートと名高い集合住宅へと足を近付けて行く。厳密にはそこがの住処ではなかったものの、貧乏学生の下宿先であることには変わりない。老朽化で柱が傾き、遠目に見れば僅かに斜めになっている建物の見目も、馴染んでしまえば味わい深さのあるものだ。小汚いアパートではあったが、視界に映るそれには自然と安堵の息が漏れる。仕事を終えて心地好い疲労に浸る身体を引き連れてアパートの敷地内に踏み込んだは、光の弱い蛍光灯の下で光る金の髪を視界に捉えて目の端をふわりと緩めさせた。
「神藤さん」
。バイト帰りか?」
「はい。神藤さんもですか?」
 フランス人とのクォーターなのだと言う青年は日本人離れした彫りの深い顔立ちと、それに相応しい金糸と碧眼を有している。の通う大学では“王子様”だと囃したてられる彼の見目は、確かにお伽噺から抜け出したかのように整った外見であった。
「ああ。その後に夕飯でも如何ですかーって言われたから有り難く頂いて来たら、すっかりこの時間だ」
「あらら、そりゃまた随分長い間捕まってましたねえ」
「本当にな。まあ子供の様子も気になるだろうし、俺と話したそうな顔してたし」
 しかしながらこの人物、王子様然とした見目でありながら中身は年相応の大学生よりも擦れており、生々しい現実を熟知しているのだ。「綺麗な見た目の男と話してたら気分良くなるみたいだし?」と、彼に夕食を勧めた母親だか姉だかを揶揄する言葉に、はおかしさを堪えず素直に笑った。
「まぁいいんじゃないですか、お夕飯代浮くわけだし」
「まあな。だからご同伴に預かって来たんだ」
 彼の生活実情を知る者は、そう多くない。とて彼が下宿先の隣人でなければ、噂に漏れ聞く“王子様”しか知らずに大学生活を送ることになっていただろう。
 だがこの神藤天輝と言う人物は見目から心の性根まで“王子様”と言うわけではない。市内一のボロアパートに家族で住み続けているほどには生活の困窮した、六人の弟妹を持つ大家族の長男なのだ。その生活を守る為に使えると判断したものを活用出来る限界まで用いた結果、彼は“王子様”になった。そんな稀有な経歴を知ったからこそ、も進んで近所付き合いを始めるようになったのである。家賃の安さだけが売りのアパートを下宿先に選んだ彼女の生活も決して潤っているわけではない為、神藤家とは持ちつ持たれつの関係を長く続けていた。
「でも、お夕飯済んでたならナイスタイミングですね。バイト先からお酒の試供品貰ったんで、一服一杯如何です?」
 アルバイト先の関係でアルコールを渡されることは少なくないのだが、は生憎とそれを得意としていない。しかし隣人の長男である天輝は麗しく繊細な見目に反して、アルコールにも随分強い。未成年の弟妹達で溢れる家の中では彼にとって数少ない贅沢品である煙草も中々手が出せないだろう状況を知っていた為にそう申し出れば、天輝は安っぽい明かりの下で澄んだ青の瞳を宝石のように輝かせて「いいのか?」と口元を綻ばせた。勿論ですと頷きながら腕に引っ掛けていた袋を掲げて見せれば、アルコールの詰まった缶がぶつかって少しばかり音を立てる。冬と言う季節が幸いして冷やす必要もなく、天輝は自宅に向けられていた爪先の方向を変えると部屋の鍵を取り出すの隣に立った。帰宅は一服一杯を済ませてからにするらしい。

 狭い部屋の扉を開けて中へ入り、慣れ切った様子で「お邪魔します」と形式的な挨拶を紡ぎながら靴を脱ぐ天輝へどうぞと同じものを返す。それさえ済んでしまえば勝手知ったる他人の家という言葉に相応しく、天輝は恐縮することも鷹揚に振舞うこともなく、ただ当たり前のこととしてシンクで手を洗っていた。はその横でビールの缶を狭い流し台へ置き、安いステンレス製の灰皿と共に並べて置く。手を洗い終えた天輝がそれらを持ってリビングへ出たのを見てから、深夜子は袋の中に残っていたものを取り出した。見られたくないなどと言うわけではない、狭い台所では二人が並んだ状態だと何も出来ないのだ。
 つまみ代わりにと渡された自家製のキムチを取り出し、冷蔵庫の中で余っていた豚肉を引っ張り出してフライパンを温める。そこに豚肉を敷いて炒め始めれば、一杯よりも先に一服していたらしい天輝が煙草の匂いを滲ませながら声を投げた。換気扇を回しているせいで、煙は自然と台所へ集まって来る。
「何作ってるんだ?」
「おつまみ兼、明日のお昼です。食べます?」
「おう、それじゃ遠慮なく」
 特売品の豚肉へ金もかけずに得たキムチを投入して火を通せば、それだけで一品はすぐさま完成する。弁当用だけを小皿へ取り除き、面倒臭さが祟ってフライパンを鍋敷きと共にローテーブルの上へ運んでも天輝は何も言わなかった。
「悪いな、酒だけのはずだったのに」
「どうせお弁当用に作ろうと思ってましたから、ついでですよ。それに、神藤さんちにはいつもお世話になってますから」
 スーパーの特売品を揃って買いに行き、授業中に行われるタイムセールの戦利品を分け与えられ、持ちつ持たれつと言うよりもは随分と神藤家の好意の恩恵に預かっている。還元させて下さい、と茶化したように笑えば、天輝もの放つ言葉を予想していたのだろう笑みを浮かべて首肯を返す。それにはほっと息を吐き、自らの分の飲み物を片手に天輝の前へ腰を下ろした。
「はい、お待たせしました」
「はい、お待たせされました」
 冗談めかして頭を下げれば同じように頭を下げ返され、小さく笑いあった後にそれぞれプルタブを引いた缶をぶつけ合う。乾杯と頂きますの声を上げ合って、互いに飲み物を煽った。ぷは、と心地好さそうに上がる音を聞きながら、も渡された試供品の一つを舐めるように飲む。甘ったるい味はジュースそのものであったが、アルコールの苦手な彼女にとっては丁度良いほどであった。
「はー、酒とつまみと煙草が心おきなく楽しめるって素晴らしい……」
「神藤さんのバイトじゃ、どれも楽しめませんもんねぇ。いつもお疲れ様です」
「それも含めてバイトだから、仕方ないと言えば仕方ないんだけどな」
 一方、煙草を一本吸った天輝は放った言葉の通り缶ビールと豚キムチを堪能しているようでうっとりと目を細めている。彼にとっては慣れたものであるとは言え、他所行きの顔で指導と接待を重ねていれば疲弊するのも当然のこと。隣人として過ごし続けるうちに剥がれた仮面の中身を何の躊躇もなく晒すようになっていた天輝は、それどころかの部屋を憩いの場のように扱っていた。飲酒はともかく喫煙を躊躇する家庭状況では、それも無理からぬことではあるのだろうが。お陰での部屋は、少しずつではあるものの煙草の匂いが侵食を始めていた。
「まぁでも、こうやって一遍に全部味わえるってのはいいもんだな……」
「あはは。うちでよければ、幾らでも提供しますよ」
 味見しかしていなかった豚キムチへも箸を伸ばしながら、天輝の言葉にころころと笑う。寝食のすべてを一人で片付けていると、自然と人恋しくなるものだ。こうして気軽気さくに足を踏み入れて来る来客はにとっても喜ばしいものであったし、だからこそ彼女は自宅を他者に向けて容易く解放させていた。
「しっかしさ。、お前は女だろ。こうやって邪魔してる俺の言えることじゃないけど、あんまり簡単に男を部屋に上げるなよ」
「本当、神藤さんがそれを言いますか?」
 しかしながら、天輝の言う通り彼女の行為は外聞のよろしいものとはお世辞にも言い難い。不意に説教するような口調となった長男坊の台詞にはおかしそうに笑うと、口を尖らせる青年へ僅かに目を眇めた。
 無論、深夜子とて無防備に人を呼び込んでいるわけではない。自らの性別も自覚しているし、万が一でしかないとは言え一万に一度程度には危険が降りかかる可能性があることも認識している。その上で夜半の時間帯にも異性を招き入れる理由など、数えるほどしか存在していなかった。
「いいんですよ、そう言うのは」
 まるで睦言を囁くかのように、声量を落としたがそう呟く。それに天輝が意識の端を凍らせるよりも先に、彼女は常と同じ表情で自らの言葉を茶化すかのように声を落とした。
「万一何かヤバい事態になっても、壁蹴ったら緊急事態ってのは神藤さんちに伝わるでしょ?」
「お前な……確かに伝わるけど、その解決方法はどうなんだ……」
「でも、それが一番手っ取り早いじゃないですか。また神藤さんちに迷惑かけちゃいますけど」
 天輝は自らがへ万一の危険を与える人物になるつもりがないのだろう、無意識のうちにか選ばれた言葉には同じ言葉で返す必要がある。にこにこと笑みを浮かべながら甘ったるく度数のごく低いアルコール飲料を煽ると、粘り気のある甘味を飲み込んだ後に努めてにこやかな笑顔を作った。
「そう言うこと変に気にしすぎて、のんびり出来なくなる方が嫌じゃないですか。大丈夫ですよ、神藤さんちの皆さん以外は特に呼んでませんもん」
「ならいいけどさ。本当、お前は妙なところで抜けてるからな。釘刺しとかなきゃ下手な奴に狙われかねないし、それでうっかりぱっくり、なんてやられちゃ洒落にもならん」
 見目やそうなるよう仕向けた努力の甲斐もあり、天輝は男女を問わず羨望と憧憬の念を強く向けられることが多い。その為に他者からの好意に敏感で、更に付け加えるならば強い好意を彼は欲していなかった。恋人が出来たところで相手をしてやれる暇と余裕がないのだろうし、進んでそれを望むほど思う相手が彼にはいないのだろう。そうなれば深夜子に出来ることと言えば、自己研鑚を怠ることのない天輝に一時の休憩所を提供することだけだった。
「嫌ですねえ、そこまで無警戒じゃありませんよ。こんな時間にも呼ぶ人なんて、神藤さん達ぐらいですって」
「わかってるって、だから何も言ってないだろ?」
「今さっきお小言頂きましたよう」
 は決して、天輝が自らのすべきことや自己研鑚に励む以上の存在になることを望んでいるわけではない。彼女が好ましいと思ったのは、屈強な精神と柔軟な姿勢で持って自らを鍛え上げる直向きさだ。それを自らが損なわせるような真似など、望むはずがなかった。
「あんまり周りの心配ばっかりしてたら、休まるものも休まりませんよ。今ぐらい、お酒おつまみ煙草を味わって下さい」
「……ああ、そうだな。じゃ、冷める前に頂くか」
「ええ、ぜひぜひ」
 それを思えば、配る気のなんと不毛なことだろう。片付け切れない苦みをそっと飲み下し、甘い味のアルコールで蓋をしてはつまみを掻き込む天輝の姿にゆるゆると目を細めた。

  • なんでこんなに好きなのかなあ