玄関に入って、はその変化に気づいた。母を亡くし、父親は海外で仕事をしているの家庭は、無論一人暮らしである。高校生になってからすっかり染み付いた生活の、その延長である今このとき、玄関にのものではない靴があった。父のものではない。その確信があるのは、その靴の持ち主を知っているからであった。
 靴を丁寧に並べて、自身も靴を脱いで家の中に入る。一人暮らしには寂しい家であるが、そこには今、確実に以外の誰かがいる。言い方を違えれば恐怖そのものであるが、しかしはそれに多少の期待を持っていた。素直に、人がいるのが嬉しいというのもあるが、それだけではない。
 鍵を渡したのはいつだったか、要るかと聞いたらくれるならと答えられたので渡したけれど、そんなに多用はされていない。ただなんとなく、その人が、自分の家の鍵を持っている事実が嬉しかった。少し冷たい床も、ほんのりぬくもりがあるように感じるから不思議だ。
 けれど、人がいるにしては静寂そのものであった。騒ぐような人間ではないにしろ、誰かがいるということは、それだけで何かしらの存在の音を立てる。心臓や呼吸、瞬きの一つ一つ。耳に聞こえる音でななくとも、それらは確実に生命を主張して、存在を声高に示す。であるのに、家の中は静寂に満ちていた。ほんのりと温もりがあるにも関わらず、である。
「洋平さん?」
 違和に少し不安になりながら、リビングへ。しかし彼の姿は見えない。おかしい。靴も、鞄も、ジャケットもあるのに。彼の匂い、仄かに具えた香水の香りまでするというのにだ。
 その不安も、違和も、少し視点を変えれば、何のこともなかった。
「…………なにしてらっしゃるんですか……」
 はあ、とひとつ溜息。の呆れたようなほっとしたような目線の先には、その人――下手洋平がいた。長身をソファからはみ出させて、ぐっすりと眠っている。
 はしばしその様を眺めていた。どうせ、たぶん、きっと。狸寝入りだろうと思いながら、荷物は傍に置いてその寝顔を見つめる。十も歳の違う彼の整った顔には、の知らないことが染み付いている。いつもなら、細められた目にそれを益々感じたりするものだけれど、今日は違う。寝顔は、いつもより少しあどけない。ほんの少し親しみを覚えつつ、――ああそうだ、毛布取ってこよう。寝てる振りだとしても、寒いことには変わりないだろう。
 毛布を持ってきたところで、矢張り彼は眠り続けていた。本当に、熟睡のようである。
(疲れているのかな……)
 洋平のプライベートに関して、は全く情報を持っていない。ジャズボーカリストとして仕事をしていることぐらいは無論知っているが、自分から観に行かなくては彼の仕事の様子なんて知らないし、ステージ上の彼は、まさしく「下手洋平」そのものだ。そこに私情を挟みこむような男でないことは、よく知っている。
 結局のところを、は彼のことを知らないのである。
 やっぱり寒いな、なんて思いながら紅茶を淹れる。その間も、洋平はぐっすりであった。生活音など、目覚まし時計の代わりにはならない程度に。
 ココアを置き、カーペットの上にぺたりと座り込み、彼の傍に落ちていた本を拾う。読んでいた途中で寝入ったのか、眠りにつくまでの暇つぶしだったのか、洋平にしかわからないことではあるが、なんとなく、後者だろうなと思った。落ちていた本は彼のものでなく、のものだったからだ。リビングにもある本棚から、勝手に拝借したのだろう。それを咎めることはしない。ただ、内容は絶対に、彼の興味をそそる物ではなかった。教養にはならないようなそれである。
 カチコチと時計が進む。こんこんと眠る洋平の傍で、は紅茶をすすりながら読書に耽る。もうすぐ夕方になる。そろそろ夕飯の準備かな、と思いつつも、なんとなく立ち上がる気にはならない。
 ふと洋平を見る。彼の突然の訪問は、多くはないが少なくもない。それらは全て、用事なんてないに等しい。けれど、彼は来るし、は迎える。端から見れば、究極的に便利な家である。何せ食事の準備までするのだ。ただ飯に加えて、ソファでよければ寝ることもできる。自分でも、何しているんだろうなと思うのだが、やめる気は起きない。決して、惰性ではないけれど。
 そもそも彼も彼である。そんなに眠るくらいなら、自宅に帰った方が休まるのではないか。勝手を知り尽くしたと言えど、他人の家は他人の家である。しかも、女の子の部屋だ。迎える方にも無論問題はあるが、訪れる方もどうなのかという話であって。
 それでも、そんなことを全て無視して、二人はこうしている。
 洋平から本に目を戻す。ええと、どこまで読んだっけ。開いていたページにざっと目を通すと、背後から、衣擦れの音がした。
「ん」
「おはようございます。夕方ですけれど」
「ああ、帰ってたのか。起こしてくれてよかったのに」
 私の家なのですが、という言葉を引っ込めて、よく眠られていたので、と返す。眠気が去らないらしく、テンポが少し遅い。彼の目覚めを契機に夕飯でも作ろうかと思ったら、突然頭を撫でられた。わしわしと、遠慮が無い。髪が乱れる。
「わ、ちょっと、洋平さん」
「スキンシップ、ってやつ?」
 他にやり方があるでしょう、という言葉が出ないのが、の性質であった。そうしたいならとついついされるがままになってしまう。苦言を吐いてもいいのだが、どうもそういう気にならない。理由もなくずるい人だなと思う。
 きっと、彼も、の何も知らないのだろう。教えていないし、そもそも洋平も聞かないのだ。隠すようなものはないが、わざわざ語るほどでもないし、聞いて欲しいと思うものでもない。ならばそれでいい。きっと彼も、同じような感覚でいる。それは、なんとなく解る。
「これがだめなら――そうだな、ハグでもする?」
「洋平さんができるならどうぞ」
 この会話に、意味がないことはよく解っている。 甘やかして、甘えている。
 たぶん、そういうことなんだろう。それぐらいに。

  • なんでこんなに好きなのかなあ