朝食を作りながら適当に付けたテレビ番組の中で流れる天気予報を見ては気温を確認し、大学へ行くまでの道のりを進みながら何の気もなしに景色を眺め、携帯電話を取り出した際にスケジュール帳を開いてカレンダーを確かめ、講義の合間に食事の献立を考えて、部活動を終えた後は夕食の材料を買って帰宅し、手早く食事を作ってしまう。
 王太郎の先輩に当たる青年が見れば「お前は主婦か」と言うコメントを投げられかねないと一日の振舞いを思い返した王太郎は浅く息を吐き、ついつい多めに作ってしまった夕食の中身を手早く保存用の容器へ詰め込んだ。既に日暮れも過ぎて夕食も取り終えた時間帯ではあるが、この後の予定を思うと主婦ではなく通い妻と称した方が恐らく相応しい表現となるのだろう。思わず溜息を吐きながら、外出の準備を整える。ちなみに溜息の矛先は通い妻たる現状ではない、それを存外悪くないと甘受してしまっている自分に対してだ。

 当初はこれほど頻繁に足を運ばせる予定もなかったのだが、気付けば通い慣れてしまったオフィス街を通り抜けて未だ明かりが灯り続けているビルの中へ足を踏み入れる。本来ならば終業時間も疾うに過ぎているはずだと言うのに、周囲のビルから明かりが消えて薄暗い街になる中でもこのビルばかりは始終光熱費を使い続けているのだ。目的の人物がいるのだと言う階にも当然ながら電灯は光り続けていて、王太郎は浅く息を吐くとタイミング良く通りかかった守衛に対して声をかけた。
「すみません」
「ん? あれ、君は確か、前にも来た……」
「はい、沖と申します」
 王太郎にとって幸いだったことと言えば、その守衛が以前にもこうしてコンタクトを取った相手であったと言うことだろう。深夜が近付く会社の中へ初めて足を踏み入れた時は随分と胡乱げな瞳で眺められ、話を通すまでに随分と難航した経験があるからこそ、発見した相手が知己であったことは大きな幸いであった。
「開発部のさんへ、少し用がありまして」
「ああ、はいはいちょっと待ってね。それならすぐ呼び出すから」
 既に勤務時間外であると言うのにも関わらず、相手の所属する場を示せば守衛はすぐに内線を繋ぎ始める。相手の勤務先である開発部は、それほどまでに残業が多いのだ。終電帰りどころか社内に簡易休憩室があるものだから泊まり込んで仕事をすることも稀ではないと聞いた瞬間には、社会人の過酷な環境に気が遠くなりかけたことも記憶に新しい。ああやっぱり残業中かと、最近では感慨を覚えることすらなくなってしまった。それを前提として動いている我が身と、それが当然となる状況が恐ろしい。不意に冷たくなる背筋に身を震わせていると、連絡を取り終えたのだろう守衛が受付に備え付けられている電話を切って王太郎を振り返った。
「お待たせ。さん、一区切り付けてから来るそうだ」
「わかりました、ご丁寧にありがとうございます」
 守衛の言葉に王太郎は苦笑を滲ませながらも頷き、社内の警備に戻るのだろう男性へ一礼をする。一区切り付けてからと言うことは、最低でも十分は待つことになるに違いない。電池持つかな、と口の中で転がした言葉を飲み込みながら、暇潰しの代わりに開いた携帯電話をいじり始めた。
 電池の残量が三割を切るところで目的の人物はようやく社内から王太郎の待つロビーへと顔を出し、人気どころか明かりすら絞られた空間の中で彼の名を呼ぶ。高い女性の声は、広いホールの中では不思議なほどによく通った。
「タロ君! ごめんね、待たせちゃった」
「もう慣れましたから、気にしてませんよ。それに、僕が勝手に来ただけですから」
「ワオ、何それ」
 貶されてるんだかフォローされてるんだか、と広がる声と同じ明るい笑みを浮かべて王太郎の下へ駆け寄って来た相手は、些か幼い顔立ちではあるものの間違いなく彼より年上の女性である。目の下に刻まれている隈は以前見た時よりも随分と深くなっていて、彼女の業務の過酷さを何より雄弁に語っていた。
「隈、また酷くなってませんか? ちゃんと家に帰って寝てるんでしょうね」
「あーいや、あはは」
「……さん?」
「いやだってほら、納品近いのにまだプログラム出来上がってないし、試運転までの目途も立ってないし?」
 彼女の隈が悪化する時は、その大凡が会社に泊まり込んでいる時だ。じっとりと睨み付ければ、苦笑と共に彼女の両手が肩の辺りまで上げられた。どうやら諦めてホールドアップをしたらしい。
「そんなことだろうと思いました。また碌にご飯食べてないんでしょう」
「いや、頭動かすのに必要な分は一応」
「サプリメントとカロリーメイトとゼリー以外で食事、取りました?」
「……ああいや、ははは」
 ホールドアップをしたと言うことは、王太郎の説教を甘んじて受け止める状況を認めたと言うことに他ならない。言い逃れは重ねられるものの強く反論する気もないのだろう、少しきつめの声を落とせばすぐさま目は逸らされ、およそ人間らしい営みを半ば放棄している姿に思わず溜息が漏れた。それを聞き付けたは申し訳なさが浮かび上がったのか窺うように王太郎の顔を覗き込んでいるものの、そのようにびくつくのであればせめて食事か睡眠ぐらいはまともに取っておいて欲しかったと言うのが王太郎の本音である。
「まあ、なんとなく予想はしてましたけど」
「ワーオ、本当に? 私、タロ君に納期言ってたっけ」
「いえ。ですがメールを返信するタイミングが不規則で妙な時間に返って来るようになった時は、ほとんど今みたいな状況なので」
 延々と職場に篭もって仕事を続けていれば、時間の感覚など容易く狂ってしまうのだろう。手にかけた業務に没頭し続け、息抜きを入れるその都度にはメールを返信しているのだろうが、その息抜きですら不定期になってしまっているようで、王太郎の携帯電話は夜中の三時だろうと遠慮なく鳴り出すのだ。しかしその奇妙な時刻のアラームは彼にとって一つの合図であり、それが続いた頃に彼はこうして本来ならば無関係であるはずの会社まで顔を出すようになるのである。
「せめてまともなご飯を口に入れて下さい。そうじゃなきゃさんの消化器官、仕事を忘れかねませんよ」
「断食まではしてないから大丈夫だと思うけど」
「一日一食取ることすら忘れてたらそれは立派な断食です」
 小言を漏らしながら手荷物を持ち上げてに差し出せば、彼女はきょとんと瞳を丸くさせ、まだ仄かな熱を持っている紙袋の中身に合点が行ったのだろう笑顔を咲かせてそれを受け取る。「いい匂い」と目を細めて呟く様はやはり、年齢不相応なほど稚い表情であった。
「ありがと、タロ君。これで頑張れる」
「なら、良かったです」
 気楽な顔で笑い、高い声を爛々と鳴らしてはいたものの、当然ながら疲労は溜まっているのだろう。気の抜けた顔から滲み出ているのは降り積もる疲弊に他ならず、しかし自分ではどうにもしてやることの出来ないものに王太郎は内心で苦く眉を顰めた。
「容器はまた明日、取りに来ますから。明日は何が食べたいですか?」
「へ? いやいいよ、そうしょっちゅうだとさすがに悪い」
「悪いと思うなら、三食取ってちゃんと寝て下さい」
 こうして通い妻の真似事が出来ているだけ、何もせずにいるよりは随分と気も楽ではあるのだけれど。遠慮を示すへ本来ならば可能であるはずの無理難題を振りかけるとぐっと息を飲む音が零れ、その様子に王太郎は何度目になるかもわからない溜息を吐いた。
「僕にとっては、馬車馬のように働かされて倒れる寸前の状態で納品して倒れる寸前で飲み会に参加して夜中に人気のない道で倒れ込まれる方が困ります。それに比べたら食事ぐらい自分のついでですし、何も悪くありませんよ」
「ちょっとタロ君それはいい加減忘れてもらえるかな!?」
「あんな衝撃的な出会い方、一体何をどうしたら忘れられるのか僕も知りたいぐらいですよ」
 小言ついでに零した言葉は脚色されることのない事実であり、更にはその状況にいたを王太郎が偶然発見して保護したことが知り合う切欠だったのだから、零した言葉通り忘れられるはずがない。既にそれが遠い話となるほど王太郎もとは長く親交があるわけであるが、その中でも彼が遭遇したような大失態は聞いていない。そうならないよう王太郎が口煩く苦言を漏らして食生活の改善に努めていたのだから、そうでなければ困ると言うものだ。
「断るなら、ちゃんとご飯は食べて下さい。食べれないなら断らないで下さい」
「……いやでも、学生に甘えちゃうわけには、ねえ」
「学生とか社会人だとか、そう言う風に考えないで下さいよ」
 そのまま彼女の胃袋は掴んだわけであるが、未だその心は王太郎よりも会社だとか一般的な倫理観や常識のものらしい。未だ渋るへ少しだけ眉を顰めて見せた王太郎は、僅かに腰を屈めて彼女との瞳の位置を近付けた。
「食事を作っても作らなくても、さんのことが気になってしまうのは変わらないんですから。せめて、気持ち良く貴方のことを考えれるようにさせて下さい」
 ね、と目尻を緩めて微笑みかければ、化粧でごまかしてはいるものの血色の悪さが際立つ顔に仄かな赤みが走る。それから瞬き一つをする間もなく柔らかな笑みを広げられ、くすぐったさを隠しもしない笑顔が王太郎に返された。
「タロ君ってほんと、人たらし」
 じゃあお姉さん甘えちゃおっかな、なんて笑う彼女の心は、胃袋のようには容易く掴まれてくれないようであるのだけれど。ころころと笑うの姿に王太郎も笑みを深めると、蕩ける顔でそうして下さいと頷いた。
 彼女の体調管理を手伝いながら、胃袋から心臓まで纏めて掴む術を画策する時間は決して王太郎の厭うものではなく、日常的に寄り添っているものと化している。もぎ取ることの出来た権利に安堵の息を内心でそっと吐き出しながら、ありがとうと笑うへ彼はまた笑みを向け返した。

  • いつだって君を思ってしまう癖