眠りの海から浮き上がってくる。それまで見ていた夢を細かく散らし深海魚の餌にして、夢と現の境、水面に向かってゆっくりと泳いでいく。心地よい暗さの海の底から、眩い光を目指して、けれどゆったりと浮上していく。ゆらゆらとゆれる水面にたどり着いて、そのまま揺れていたい気持ちをなんとか海に残して目を開いた。――朝の、到来であった。
 寝ぼけ眼で上体を起こして、体をひねらせたり伸ばしたりすると、何処かでパキリと音がした。ああ、おかしな体勢で寝ていたのだろう。右腕が少し痛い。
 大江唯の朝は、そうして始まる。そして起床した彼が一番にやることは、いつも決まっていた。
「……今日は雨っぽいな」
 寝床のそばの窓から、外の天気を伺うことだった。眠りにつく前と同じ曇天は、そのときよりもじんわりと水気を帯びた空気を湛えている。誰の目から見ても、一雨くることを確信させる暗い空だった。
 唯は晴れも雨も、曇りも雪も、どれに対しても特別な思い入れはない。晴れれば面倒がないし、季節によっては温もりを有り難く感じる。曇れば涼しいと思う日もあるだろう。雪が降れば、寒さに季節を感じたり、雪でひと遊びなんてできるかもしれない。雨が降ったとしても、その冷たさを感じ、濡れる衣服を煩わしく思いこそすれ――雨そのものを疎ましく感じることはなかった。どれも当たり前の営みで、唯が何か苦言を呈するものでなく、だからこそそれを味わうことを楽しめばいいと思っている。
 けれど、最近の自分はよく天気を気にかける。それこそ、起床したその瞬間から。一日の初めに思うことはいつもそれで、起き抜けに確認したくせに、新聞を開いては天気予報に目をやりテレビをつけては短い気象情報の時間を逃すまいとする。雑誌を開いても同様で、通学の電車内で携帯電話を取り出して最初にすることも、同じだった。
 無論、唯自身に天気に対する執着はない。せいぜい屋外で何かをするときに、苦労しなけれはばいいなと考える程度である。ここまで気にするのは、決して自分の為ではない。けれど、ならば何の為かと聞かれれば、唯は明確に答えられない。何せ、調べたところでやってくるのは心配と懸念、あるいは安堵であって、――そういう意味で語るのなら、全く以て自分の為だった。そこにそれ以上の目的はない。
 目的はないのだ。しかし、切っ掛けは確かにあった。あって、しまった。


 その、大変な雨の日のことである。
「止みそうにないな」
 唯は隣に立つひとに向かって、けれど独り言のように呟いた。傘を持たなかった彼と彼女は、軒先で二人ぽつんと雨空を眺めている。
「早く止むといいけど」
 諦め気味な吐息とともに、彼女は呟いた。同時に雨に打たれるアスファルトに視線を向け、睫毛は少し下がる。控えめながらきれいな、画になるひとだなと唯は思った。柔らかくまとめられた髪を飾る青いリボンが、何かの仕草の度に揺れる。彼女は愚直に――そう、極めて愚かで素直に、雨が止むのを待っている。
 特に用もない唯は、雨と冷気を避けて屋内に引っ込んでもよかった。普段ならばそうするし、それが一般的だとも思っている。だが、雨に足止めされてもそこから動かない彼女の存在に、そうすることが悪のように思えて、隣で同じように雨が止むのを待っていた。外と中のちょうど中間の、どこでもない境界線の上で、二人は雨を眺める。それだけしかすることはないものの、悪い気分はしなかった。
は、急いでいるのか?」
 そのばか正直な様が気になって、彼女、に問うてみると、
「そういうわけじゃないけれど……、うーん……」
 曖昧な返事が帰ってきて、そうして雨の音だけになってしまう。何度か授業が被り、そしてたまたま隣に座り、グループワークを伴にした程度で友人と呼ぶにも中途半端な唯との関係では、言えないこともあるだろう。唯は特に言及せず、そしては唯の配慮にくすりと笑った。彼女がいつもつけている、青いリボンが揺れる。
「大江君は、いいひとね」
「なんだそれ」
「一般論かな」
 彼女の言動は、ふわふわとつかみどころがない。的を狙っているのかいないのか、何も考えていないのか。唯はどちらかといえば察しのいい方であるが、それでもの言うことは言葉以上の意味を理解できないことがあった。あまり現実感のない女、そういう印象が強い。
「大江君は急いでいるの?」
「いや、そういうわけじゃないんだが……」
「?」
「なんとなく、な」
「そう」
 と同じく首を傾げたい気分であった。全く以って、自分でもわからない。唯は、彼女を軒先に置いてけぼりにして、屋内に引っ込んでもいいのである。連れ合いというほどの仲でもない。けれど、それをしてはいけない気持ちに駆られている。自分はそれほど彼女を気に入っていたのかと、自分で驚いているところなのだ。
 会話が切れて、しんと雨の降る音だけになる。その沈黙を、は雨粒一つ程も気にしていないようで、それは唯も同じであった。沈黙という時間の過ごし方を、こんな風に思ったのは初めてだ。雨が地面を打つ音が、一つの音楽のようで耳に心地よい。意識して聞けば、それは小さくも確実に強弱を持っていて、そしてだんだんと勢いを弱くしていた。控えめになりつつある雨脚は、世界を包むようだなと誌的なことを考えてしまう。ざあざあと豪快に降る雨より、ずっと優しい。
「大江君は」
 唐突にが口を開いた。今までのそれより、少し攻撃的で、それでいて寂しそうに聞こえたのは音の小さくなった雨のせいだろうか。
「雨は好きですか?」
「は……雨? この?」
 唯が怪訝な顔で空に目をやり、
「うん」
 はそれに頷いた。不可思議なことを聞く。唯は矢張りそんなことを考えたことが無いかった。考えたことの無い話に唯は首を捻る。雨、雨。あめ。情緒的な要素であろう。雨が降る、それだけで場が整うとも言える。そういう舞台装置として考えるのなら、面白い。けれど、そこに好意や嫌悪は全く存在しない。――しばし考え続けていると、隣で小さな笑い声がした。
「あ。ごめん、真面目に考えてくれてるから、なんだか」
「冗談だったのかよ」
「そういうわけじゃないけれど」
 だって私、変なこと聞いたわ。
 自覚があったのか。変なこと、唯からしてみれば不思議なことではある。
「……は、」
「好きじゃないよ」
「……」
「雨、好きじゃないんだ。特にこんな、優しい雨は」
 彼女はひどく悲しい目に、雨を映してそう呟いて、その色を唯の胸に焼き付けたのだった。


 おかげで、友人からは毎日天気の宛にされてしまっている。二時間先の天気を把握している自分なので、仕方ないのだが。唯は電車に揺られながら溜息ついて、鈍い色をした空を見上げた後、傘を握っていた手を持ち替えて、携帯電話を操作し始めた。予報は矢張り、雨である。
(空振りだといいのにな)
 傘のマークを映す画面と、持ってきた傘を見比べて思う。空振りであればいい、雨が降らなければいい。そうしたら、きっとはあんな目をせずに済むのだろう。
 ぱたり、何かが車窓を叩く音がして、唯は溜息をついた。
は、――どうして雨が嫌いなんだろうな)
 もし、彼女の答えに鍵が掛かっていなかったなら、聞いてみようと思った。

  • いつだって君を思ってしまう癖