やわらかくてきれいな君の

 ふわふわだろうか、さらさらだろうか。もこもこ、も近いけれど。
 どれもしっくりこないなあ。そんな思考をしながら、の手は忙しなく動いていた。色の濃い髪に指を通し、丁寧に梳く。その繰り返しを延々と行っている。その静かな行為に聞こえるのは、自分の呼吸と、相手の呼吸、時折身じろぐその仕草の音。たったそれだけの静かな宇宙航行だった。
 キャビンの中にはふたりきり。まだ他の誰も起きてきていないし、ピザの焼ける匂いもまだまだ遠い。そのことを意識して、ついの手が止まった。目の前の男がくるり、振り返る。
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
 なんでもないなんてことはない。けれど、わざわざ意識してしまったことを伝えるのもおかしな話だ。男は特に追求することもなく、けれど納得したわけでもなく向き直す。再び正面にきたその丸い頭に向かって、素直だなあとくすり微笑む。そしてまた、その髪に触れる。
「レイの髪はきれいだね」
 とは言っても、寝癖がまだまだ直らないのだが。


 一番星号の船長にして操縦士、一番星のレイ。彼は誰よりも早く起きる。宇宙に出ると、朝も昼も夜もあったものではない。だから、宇宙を巡る者は皆、一定の絶対時間によってそれぞれにあった行動する。一番星号においてそれは勿論、レイが基準となる――はずが、こと起床に関して彼のそれはとかく早かった。そして就寝も早かった。それが極めて一定のリズムであるため、一番星号の時間間隔は狂うことなく巡る。宇宙全域の絶対時間と照らし合わせても寸分も狂わないそれに,、始めのうちは誰もが舌を巻いた。数日するうちにすっかり慣れてしまうのも、皆同じであるのだが。
 それを初めて見たときのの感想は、いいことだ、に尽きる。早く寝て早く起きる。太陽光の恩恵もそう多くは受けらない宇宙航行において、生活のリズムが一定であることは、惑星に住まう者のそれよりも美徳だろう。感覚が狂って時差ボケを起こす者もいる。それで済めばマシな方で、身体や心に異常をきたす者も少なくはないという。時間とはそれだけ、個人に密接に関わるものだ。だから、もできるだけ、レイのリズムに合わせるようにしている。早く寝て、早く起きる。それだけのこと。ただ、ライラやリクトからは、「レイはいくらなんでも早すぎる」と評価されていて、実際レイより早くが起きたためしは無いのだが。
 今日も同じだろうと、身支度を整えて宛がわれた部屋から出たは思っていた。居住域から厨房に上がり、そこにはまだソルトもいなくて、キャビンにいけば操縦席にレイがいる。が名前を呼ぶのと同時にレイが振り向いて、朝の挨拶をする。その笑顔が、は好きだ。今日も変わりなく一日が始まること、自分が今ここにいることが実感できる。会話はその繋がりを証明する。だからも、笑顔で挨拶をする。
 けれど、その日は少し違っていた。キャビンに入ると、モニターは一つも開いてなかった。いつもならソファにいるムゲンの姿もなかったし、キャビン内の雰囲気そのものが違っていた。入った途端の違和感をさらに深めたのは、操縦席だ。椅子の背に隠れているだけかと思ったら、誰もいないのである。投げ出された足も、背もたれに隠れきれない長い髪もない。それに気付いたとき、の後ろで、お、と短い声がした。振り向くと、一番星のレイ。いつもなら、を挟んで反対側の操縦席に座ってを迎えるそのひとが、きょとんとした顔で同じくきょとんとした顔のを見ている。ふたりの視線がかち合って、も、そしてレイも、状況を理解した。
「出遅れた!!」
 挨拶よりも何よりも、レイが一番にしたことは、一番星号で一番に起きられなかったことへの悔しさの吐露だった。顔を顰めて言うレイに、は吹き出してしまうが、それを気にするレイでもなく。
「おはようレイ。早起き一番は、わたしだね」
「うー……、おはよう。明日は負けねえからな!」
 笑顔のの横をすり抜けて、レイは足早にキャビンに入り操縦席に近づく。そしていつもどおりデッキをセットする。キュンと小さく音がして、レイの手から離れたデッキがほんのりと輝いた。クルー全員が休んでいる間、同じく休眠状態だった一番星号に、目覚めのエネルギーが走る。これが、一日の始まり。レイが起きると、一番星号そのものが目覚める。船に朝がやってくるその瞬間を、は初めて目にした。なんだか朝日が昇るのに似てる気がする。そんなことを考えて、操縦席の傍による。
「よーし。問題ねえな、つってもまだ飛ばさねえけどな」
 低速航行で自動操縦のまま、一番星号は緩やかに進む。
「ムゲンは? 一緒じゃないの?」
「声はかけておいたし、そのうち起きるさ」
 あいつ起きるのに時間かかるんだよな。ひらひらを手を振りながら操縦席に着き、もう一度計器をくまなくチェックする。
 あっさりしていて、大事な部分はしっかりしている。宇宙を旅することが、それだけ重たい事実なのかもしれない。そのくせ身一つで宇宙に飛び出したりするのだから、全く以って読めない男である。自由であり、その責任を知っているのだろう。両面をよく知っている。は宇宙が怖いと言った。わからないものがたくさんあるのだと。そのとき彼は、「まだまだ観たことないもんがたくさんあるってことだ」なんて、それこそ星のような輝きの瞳で言ったのだ。だからは彼の手を取ったし、彼の船に乗った。宇宙に出ることを決めた。知らないことを知りたいと思った。彼の見る宇宙が観てみたいと思ったからだ。
 レイは手元の機器をいくつか操作して、正面にモニターを出す。それは一番星号の状態であったり、ニュース配信であったり、さまざまだ。あちこちのモニターに目をやって、そのうちのいくつかを消して、また目をやる。も同じように目を向ける。レイが消していく基準がなんとなくわかった。きっと、彼の興味を引くかどうかだ。最終的に、テレビ用のモニターだけが残って、それ以外は全て閉じられた。のいつもの朝は、この段階だったのだろう。
(いろんなこと、してるんだなあ……)
 は操縦席の背もたれ越しに、その癖の強い髪を見る。ふわふわしていそうだし、さらさらもしてそうだ。その相反する表現がまさしく彼らしくも思える。襟足からするりと伸びる、長い尻尾のような髪。なんとなく目で追っていて、はふと気がついた。
「あ、」
「ん?」
「レイ、寝癖ついてる」
 彼の長い髪の途中に、反乱分子が沸き立っていた。


 ――そして、はキャビンのソファにレイを横向きに座らせて、その寝癖と戦っているのだけれど。
「レイは寝癖の強さも一番だね……」
「まあな!」
 褒めてない。だがそう言ったところで思いなおす一番星でもないことを、はよく知っているので黙っておいた。の傍にはあれやこれやと、自室から持って来たレイの寝癖修正に使えそうなものが並んでいる。いつもならそんなに目立つようなとこにねーけどなー、なんて、頭頂部を撫でながら言うレイに相槌を打ちながら、掌に自前のヘアオイルを一滴だけ落とす。蒸しタオルまでしてもなかなか言うことを聞いてくれない寝癖に、今できる最終手段だ。少し香りがついているから、男のひとは好まないかもしれないなんて思いつつも、寝癖がついたままよりは随分といいだろうと結論付ける。両の掌をこすり合わせる。
「無理なら別に、そのままでいいんだぜ?」途中、本人からそんな言葉もかけられたが、の返事は「やるだけやってみる」だった。控えめな少女が言うには随分と(些細ながらも)豪胆な言葉だったことがレイに響いたのか、それきりは雑談はしても寝癖直しを止めるようなことは言わなかった。
「なあ、」
 癖のついてしまった毛束にヘアオイルを馴染ませ始めたとき、レイが改まって声をかける。視線を伴わない問い掛けに、は顔をあげないまま返答した。
「なあに?」
「やってもらっといてなんだけどさ、なんでそんなに一生懸命なの?」
 レイにしてみれば、寝癖のひとつやふたつ、大したものじゃない。寝起きの頭であればよくつくが、そちらはもともとの髪型のおかげで目立たない。今回は、たまたま目立つような所におかしな癖がついただけだ。目立つといっても、そこまでひとの髪にこだわるのも、レイとしては不思議な話だった。ほんの少し、毛先が反乱を起こしただけなのに。
「……、そうだなあ」
 厭味のない問いは、としても即答できることではなかった。気になったから、と言えばそれまでで、大した理由なんてこれっぽっちもないのだ。するすると髪を梳きながら思考する。レイはを答えを待っているようで、催促するでもなくだからと言って取り下げるでもなく、窓越しに星の浮ぶ宙をぼんやり見つめたまま、ソファの上で行儀悪く片あぐらをかいている。
 理由と言われても。やはり全くピンとこない。珍しい朝に、珍しい寝癖があっただけ。皆が起きて来るまで時間もあるし、寝癖は直した方がいいだろうなんて、そんな安直な考え以外にあるとするならば。
「レイの髪がきれいだからかな」
 するり、と毛束から手を離す。オイルのおかげか、これまでの行為全てが上手く馴染んだのか、寝癖はすっかりわからなくなって、いつもどおりの長い髪になった。さらりとして、艶のあって。癖があるもののおかげさまでまとまりができてきて。彼が動く度にその後ろを、まるで尻尾のように揺れる髪。たぶん、それがとてもきれいだから。そんなの語る理由に、その髪の持ち主は少し唸ってから、
「オレはの髪もきれいだと思うけどなあ」
 さらりと、そんなことを言う。の心臓が跳ねた。髪を玩んでいた手が止まって、瞬きすら忘れる。得体の知れない動揺がの思考を奪ってしばし時が止まった。すぐに持ち直して気付かれないように深呼吸をすると、その深さをレイがいぶかしんで、軽く振り向く。どうした? なんでもない。そう返すも、レイの顔には「なんでもないわけなさそう」という色がありありと浮んでいて、はそれを直視できない。
 視線を外したがレイはますます気に掛かる。なんでもないという相手に深く追求するほど無遠慮でもなかった。実際始めはそうして流した。であるのに、振り向いた先の彼女の様子ときたら、レイの興味を誘って仕方なかった。色が白いと、耳まですぐ赤くなるんだな。他人事のように思って、何故だか自然と頬が上がる。その赤と笑みが何を意図するかまでは、微塵も考えてはいない。見えるものがレイの全てだし、やはり追求しないのがレイの常だった。身体ごと振り向くと、は一瞬居心地悪そうな顔をした。
「ん? なんか、いい匂いするな」
 自分が身じろいだ途端に香ったそれに、レイの興味が移った。としては幸いだ。自然と小さく安堵の溜息が出る。レイはそれに気付かずに首を捻る。どうやらその香りは、自分から湧いているようだった。
「今つけたオイルの匂い。少ししかつけてないけど、……気になる?」
「へえ」
 レイは感嘆の声だけあげて、未だ結んでいない髪を掴んで鼻に寄せる。いい匂いだ。甘ったるくなくて、邪魔をしない、厭味のない匂い。どこかで嗅ぎ覚えがあるな、なんて思いついて、それがどこであるかに至る。そのとき、キャビンとキッチンを繋ぐドアが開いて、
「おっはよー!」
「おはよう! レイ、!」
 ぴこんと髪の立った姉弟と、眠たげで挨拶のしようもなさそうな赤いちびドラゴン。さらにその後ろに、機嫌よく朝食の準備を始める料理ロボット。一番星号のクルーが勢揃いした。はその賑わいに挨拶を返しながら、寝癖を直すためのあれこれを片付け、レイも自分で髪を結びながら立ち上がる。それまでの雰囲気を一変させて、一番星号全員の朝が始まる。
 二人の思考も丸ごとリセットされたかのように、特別な朝なんてなかったように。それでも、彼のついていたはずの寝癖はなくなって、その髪にほんのりいつもと違う匂いが、その日が終わるまでついていた。