向こう側の君の色

 という少女を指して一番の特徴を挙げるのならば、誰もがそのヘッドセットを指すだろう。銀色のアームに、ちょうど角でも生えそうな位置にちょこんとある白いデバイス。イヤーカバーがない為、形状はヘッドセットというよりもカチューシャに近い。こめかみ近くには、ほとんど目立たない小さなスイッチがある。は毎朝、目覚めると即座にヘッドセットをつけてそのスイッチをいれる。ぱしゅん、小さく音がして、彼女の顔の鼻から上を覆うようにレンズが現れる。これが、彼女がそのヘッドセットをつける理由。
 は極端に視力が悪い。子どもの頃はそうでもなかったが、だんだんと低下していった視力は、の視界をぼやけたまま明確な線を結べないものにしてしまった。だから、の生活にはゴーグル付のヘッドセットが欠かせない。ほとんど外すことのないそれは、にしてはもう身体の一部のようだったし、他人から見ても何よりも明らかな彼女の特徴となった。
「見えないって、どれくらい見えないの?」
 のんびりとした一番星号のキャビンの中で、ふと菓子をパリパリと食べていたリクトが質問する。話題はのヘッドセットで、レンズを出す機能以外には特に何かあるわけでもない。専用に拵えた特注のものであるという話から、その一言で焦点がの視力に変わる。
「どのくらい、……うーん……?」
 どう言えばうまく伝わるだろうか。リクトもその姉のライラも、操縦席で機器の操作をしながらこちらに注意をくれているレイも、とリクトの反対側のソファで寛いでいるムゲンにしたって、視力は悪いどころかむしろ良い方である。ソルトに至っては、そもそもロボットなので論外であって――にとってとても、とても答え難い質問だった。
「すっごくぼんやりする?」
「うん、すっごくぼんやりする」
「どれくらい?」
「う、ううん……?」
 程度の話をされると、困ってしまった。ヘッドセットがあれば明瞭な視界と、裸眼であまりにも見えない世界。この落差の表現が難しい。レンズ越しの世界と比べれば、の世界は輪郭が定まらないし、明確なものなどほとんどない。そう言えばいいのだろうか。果たして伝わるのか。
「どのくらいって言われるとちょっと困るけど、とってもぼんやりする。多分、これぐらいの距離だったら、リクトの顔もわからないよ」
「そんなに!?」
 うん、と頷けばリクトは口を開けたままぽかんとした顔で止まった。ソファに座るとリクトの距離は、その仲のよさを示すような距離感で、遠いなどということはまずない。ゆとりのある適切な隙間を開けて隣り合い、お互い身体を向き合ってお喋りをしている。であるのに、はこの距離でもリクトと判別が出来ないという。果たして目の前の人物が誰なのか、きっとわからないだろう。それぐらいの視界は悪かった。このヘッドセットがないと生活ができない。生きることそのものが難しい。
「部屋でよく転んでるもんよな〜」
「さ、最近はもうそんなことしてないっ」
 ムゲンのからかいに慌てて訂正をいれる。一番星号のクルーになったばかりのときは、ヘッドセットを外さなくてはならないタイミングで転んだりぶつかったり、そういうことばかりだった。順応の速度も早いもので、はほんの数日ですっかり一番星号の中なら裸眼でもそれなりに動けるようになっていた。どたばたとしていた朝とはそれ以来さよならだ。そもそも、ヘッドセットさえあればこっちのものなのだから。
「転んでくれると、ムゲンが起きるの早いかったんだよなあ。あれはあれで便利だったぜ」
「今そういうこと言うか!?」
「便利って言われるのも、何か違う……」
 ムゲンとしては余計以外のなにものでもないレイの一言に、は微妙な顔をしてリクトが笑った。そのタイミングで、何故だかいつもより威圧感のある音でキャビンの扉が開く。開いた先にいるのは、
「チョーお怒りデース!」
「ソルト?」
 一番星号の食事を一手に担い、毎食ピザを提供してくるソルトだが、どうやら本命は違うらしい。一言言ってそそくさとキッチンへ捌けていく。首を傾げてそれを見送った一同の前には、ライラの姿があった。一目でソルトの言葉の意味が解るような立ち姿で。
「お、おねえちゃ、」
「リクト!!」
「はい!」
「アンタ自分で片づけできるって言ったでしょ!? どーしてたった一日であんなに汚れるの!!」
 そう怒鳴った後、ライラはリクトを連れてキャビンから去っていった。ちゃんと片付けなさいきれいにするまで許さないからね! そんな声が聞こえるが残された三人にどうしようもなく、またキッチンにいたソルトも同様だった。ライラの掃除好きときれい好きを知っていても汚してしまったリクトのフォローしようものなら、同じくどやされるのが目に見えている。
「しばらく速度上げるなよ、レイ」
「また汚れるのが目に見えるもんね」
「掃除の邪魔するのも悪いしな」
 三者三様に呟き、レイが機器の操作をする。慣性がかからない程度にゆっくりと速度を落とした一番星号は、緩やかな自動操縦に切り替わった。もう一度機器を確認しレイは操縦席から立ち上がる。
「んー、ついでに少し休憩すっか」
 声を漏らしながら身体を伸ばして、レイは先ほどまでリクトが座っていた、の隣に腰を下ろした。傍に置き去りにされてしまった菓子の袋を拾うと、ムゲンにそれを示す。「いただき〜!」ムゲンが機嫌よくそれを受け取り、キッチンに向かって行った。冷たいスターダストコーラと一緒に楽しむつもりなのだろう。
「お昼食べてからずっと飛ばしてたもんね、お疲れ様」
「ん。まあちょっと休んだらまた飛ばすさ」
 何せ目指すは究極のバトスピである。その行方を示す宇宙コンパスがある為闇雲に焦ることはないが、探している者も無論大勢いる。早いに越したことはない。"一番"に拘りがあれば、尚更だ。
「あ。なあなあ、さっきの話だけどさ」
「うん?」
「それの話」
 ソファの背に思いっきり預けていた身体を起こして、レイはに向き直る。首を傾げ揺れたの髪の中で、白く硬いそれを指差す。ヘッドセットだ。そこから少し移動して、の眼前、ゴーグル部分に指を向ける。
「バトルフィールドにいるときはつけてないよな、でも見えてるのか?」
「あ、うん。そうなんだよね、なくても、あるときと同じように見えてる」
 がバトルフィールドでバトルすることは滅多にないが、それでも全くわけではない。アルティメットが含まれたそのデッキの影響か、バトルフィールドに下りるときは瞳や髪の色も変化する。衣服の変化に合わせて、必需品であるヘッドセットもすっかりなくなってしまう。だのに視界は、むしろいつもに増して明瞭だ。
「やっぱり、アルティメットの力なのかなーって、思ってるけど……」
「そっか。やっぱすげーな、アルティメット!」
「うん。レイもわたしも、色まで変わっちゃうもんね」
 レイがその姿を見たのは、自身とのバトルのときだった。そのときは何も違和感は覚えなかった。の視力とヘッドセットについて聞いたのは、バトルの後だったからだ。極端に視力が悪いこと。ヘッドセットのゴーグルがなければ生活もままならないこと。リクトとの会話を聞いて、彼女がバトルフィールドに立つ際にヘッドセットがなかったことを今更ながら思い出した。レンズに覆われずに、白くささやかに光る瞳。間近で見たわけではないが、その色はよく覚えている。彼女の、ガラスで出来た姫達で構成されたデッキと同じ、雪のようなほのかに冷たい白。
 ふとそのひんやりとした色に想い馳せて、レイはに向き直る。正面からまじまじと見られて、は曖昧に微笑むが、レイは全く気にしていなかった。じい、と見つめる先。薄青いレンズに覆われて、その正体は定かではない。
「なあ、」
「なあに?」
「それ取って見てもいいか?」
 ぱしぱし、とレンズの向こうで睫毛が上下した。唐突な頼みに理解が追いついていないようで、はしばしそうして、レイの真面目な顔をじっと見ている。レイは言葉を重ねることなく、の中で言葉が咀嚼されるのをじっと待った。待っている間に、何度が瞬きをしたのだろうか。その瞼を縁取る睫毛の色だって、レイは知らないのだ。
「……いいけど、少しだけね」
 理解が及んでしばし躊躇うように視線を泳がせた後、結局は了承した。視界が不明瞭になるのだ、躊躇いも当然だろう。いくらすっかり慣れた空間で、仲間の前だと言ってもしかたがない。レイはの不安を完全に知るわけではないが、それでもその心境を想像することはできる。
「サンキューな」
 だから、レイはその返答に笑顔で礼を言う。
 レイの言葉には少し微笑んで、一度呼吸を置いてヘッドセットに手をやる。髪に隠れて他人からは見つからないような、小さな切り替えのスイッチ。操作したところで音も聞こえず、レイからすれば、突然の顔の半分を覆うレンズがちょうど真ん中から割れて、両側のヘッドセットに吸われたようにしか見えなかった。
 ふるり、閉じていた瞼が一瞬震えて持ち上げられる。髪より少し薄い色した睫毛。レイはそれが観察できるほどの距離で、の瞳を見る。矢張り不明瞭な視界のためか、は細かく瞬きを繰り返し、ほんの少し顔を顰める。ぼんやりとした世界で、彼女はレイの姿すらはっきりとはわからないのだろう。それを察して、レイは確認してすぐさま、先ほどが切り替えたヘッドセットのスイッチに手を伸ばす。柔らかい髪が手に触れて、スイッチを探すのに指先が彼女の耳に触れてしまった。びくり、が身体を竦ませるが、それと同時にスイッチを操作できた。彼女がぎゅうと閉じた瞼を上げたときは、すっかり世界はレンズ越しに見るものに変わっていた。
 レイは触れてしまった手を鼻に寄せる。ああうん、やっぱりいい匂いだ。
「レイ、」
 あまりにも短い時間だったから、結局何がしたかったのかはさっぱりだ。それを追求しようと呼びかける。するとレイは、いつものように口角を上げて、
「ありがとな、やっぱり目の色もきれいだ」
 なんて言って、ルネの心臓を静かに飛び上がらせた。