新堂勇人には、自分の鼓動がとてつもない騒音のように聞こえた。耳のすぐ側を通る血管から伝わっているのだろう。ドクンドクンと、ゆっくりと大きな音でリズムが刻まれる。徐々にスピードを速め、呼吸を荒くしている。
 心臓がおかしくなったのかもしれない。しかし、その可能性はあまりに低いと理解できた。この状況の中で、嫌気が差す程、気持ち悪くなる程に冷静な自分がいる。其の自分が、確かに目の前の状況を判断し、そして心臓が、脳が、自分が叫んでいる。これは異常だ、普通ではない。こんなところに居てはいけない。居ることは許されない。逃げろ。逃げろ。早く。
 声に言われるまま、じり、と小石を踏んだ。一緒に上がってきた幼馴染の同級生も動揺しているのか、黙ったままだ。微かに聞こえる彼女の浅い呼吸が、勇人と同じ心境だと言うことを教えてくれる。だが勇人にそれを気にする余裕などなく、また彼女も同様にそのようなゆとりは皆無だった。
 壊れたポンプのように心臓が動き続ける。「早く逃げろ」といつまでも鳴る。
 言われるがまま走り出しても、其れは訴え続けていた。


 その、ほんの少し前。
 はクラレット達と別れて、別の位置から勇人達を観察していた。声をかけるにもタイミングというものがある。今すぐいけばいいというものでもない。多分。
 この位置からではクレーターの中まで観察できないものの、ちょうどいいタイミングで少年が現れた。続いて、彼に引き上げてもらう形で現れたのは、長い髪の少女である。
(あれ?)
 なんだろう。あの二人、見覚えがある気がする。
 ぼんやりとした記憶の中で、彼らに被る、ブレる、映像。
(……もしかして、もしかして、もしかして)
 どこの世界から呼ばれたかわからない召喚獣。黒赤紫緑のどの色とも違う世界。それは、もしかして、
 最後の記憶は、幼馴染と遊んだあの日。幼馴染と、妹と、遊んで回って、別れた夕暮れ。妹と手を繋いで、帰ろうとしたそのとき世界は一変して、帰れなくなった、あの、
(あたしがいた世界?)
 そんなの思考を、悲鳴にも似た声が遮った。
「!? しまった!」
 現を抜かしているうちに、状況を目にして混乱した二人が逃げ出してしまった。当然だ、クレーターの周りには儀式の関係者が、文字通り死屍累々。逃げ出すのも道理だ。自分のせいだと考えなくもないだろう。
「ミスったー……、バラバラになっちゃったな。うん」
 本能的に追いかけようとして、クレーターの傍まで来ていた。としては、分断はよろしくない。単純に片方の面倒が見られない。何も知らないように見える彼らが、運よく無事でいられる確率とはどれほどのものか。
 そんなことをほざいている間にも、
「夏美、危ない!」
「ひゃあ!?」
 クレーターに目を落とせば、事態はどんどん変わっていっているようであった。
「はぐれ召喚獣に襲われとる……」
 それも、厄介な方向へ。


 突然クレーターに幼馴染達と転がっていることも、幼馴染のうち二人とはぐれてしまったことも。更にはカボチャのような化け物に囲まれたことも。
 そのカボチャを蹴り飛ばしながら現れた女性に比べれば、深崎籐矢にはどれも小さなことだった。
 それだけ、肝が潰れる思いだったのだ。目の前のカボチャが蹴り飛ばされた衝撃というのは。後ろで尻餅をついているだろう夏美だって、きっとそうだろう。常識を超えることが連続して起きていて、思考が固まったのかもしれない。とにかく、その女性の登場はあまりにも唐突で突然で、そして果敢であった。
 女性はキラリと日の光を反射する何かを抜いた。籐矢の目に、それは剣のように見えた。西洋型のそれは、どう考えても籐矢や夏美の日常から遥か遠くにあるものだ。何せ、本当に切れそうなのだ。鋭利というに相応しい切っ先を、女性は化け物に向けていた。まるで籐矢達を守るかのように。
(僕達を、守るように?)
 その背中に覚えがあるのは、何故だろう。
 擬音では表せないような声を上げて、化け物は襲ってくる。立ち向かう女性は、正面から剣の面を叩きつけ薙ぎ倒した。
「危ないから下がって。ね?」
 顔だけ振り向いた彼女は、安心させるように笑った。その笑顔が誰かに似ていて、また思考が傾く。いくら一匹倒したからといって、こんなに冷静さと落ち着きと、安心感を得られるものだろうか。ふしぎ、どこかで、なつかしい、彼女は、いったい。
「……」
 後ろで夏美がポツリと呟いた名は、何よりも確かに籐矢の耳に届いたのだった。
 当の彼女は、既に四匹目の撃退にかかっていた。
姉、うしろ!!」
 夏美が叫んで、女性は言われるまますぐに振り向き剣を構える。ちょうど化け物が彼女に襲い掛かろうと飛び上がったタイミング。防御も間に合うかどうかの、瀬戸際。
 あぶない、たすけなきゃ。
 そう思って。
 彼女を、守らなきゃ。
 ドクン、ドクンと大きな鼓動。
 それが自分のものなのか、夏美のものなのか、
 その時点で、籐矢にはそれすら、わからなかった。